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会長挨拶

山田雅巳 (2022-2023年度会長)

 日本環境変異原ゲノム学会(JEMS)に改称後,初めての会長挨拶ということで,襟を正しております.まず,これから会員になっていただく方のために,自己紹介を交えながらJEMSの内容に触れることにします.初代会長の田島彌太郎先生(名誉会員,故人)から数えて私は19代目に当たります.そして,昨年創立50周年を迎えたJEMSで,初の女性会長です.これまでの会長が繰り返し述べておられるように,JEMSは産官学がそれぞれの視点で研究を進め,バランスよく連携して活動を続けてきました.私はそこに32年間籍を置いてまいりました.スタートは国立衛生試験所(現 国立医薬品食品衛生研究所)の変異遺伝部です.当時は変異遺伝部がJEMSの事務局の仕事をしていて,部長室に入会届を出しました.入会は大会で発表するためであり,最初の10年くらいは毎年大会に参加して研究発表をする「一研究者」の立場でした.大「学」の先生方を中心に交流を深めました.その後,BMS研究会や変異機構研究会に参加するようになりました.この研究会はJEMSのユニークな活動のひとつで,学会活動の幅を広げるものになっています.また,官民共同で取り組む研究費をいただいたことで,「産」の方々と交流を持つ機会が増えました.それから,国の委員会に出席する機会が増え,JEMSにおいても自分が「官」の立場であることを意識するようになりました.直近の10年余りは評議員や理事の立場で学会運営にも携わるようになり,年次大会の実行委員を3度経験し,昨年は大会会長を務めました.大会開催と並ぶ学術活動である学会誌の編集・発行には,3代目の編集委員長として関わっております.JEMSが何をする学会か,これまでの活動内容・業績などについては,改めて述べることはせず歴代会長の挨拶に委ねます.がん,環境,化学物質,レギュラトリーサイエンス,アジアなど多岐にわたることに驚かれると思います.
 葛西先生(2012-13年度会長)が書かれているように,大会で発表される研究内容はこの30年で随分変わりました.会長挨拶には,それぞれの方の研究背景を色濃く反映した形で「これからこういうことをやろう」と書かれていますが,それで発表内容が左右されたわけではないでしょう.会員をはじめとする大会参加者が,興味と熱意を持って研究し,発表し続けた結果に違いありません.そう考えると,あえて名前は書きませんが,今,感染急拡大中のウイルスに似ているなと思いました.ウイルスは意図的に変異を起こしているわけではなく,ランダムに次々変化した結果,ウイルスにとっていいものが残っているのです.Jems News(会員向けの季刊ニュースレター)の一昨年の巻頭言に三島前会長は「面白いことをやろう」と書きました.会員一人一人が面白いと思うことをやり続けることが大事だと私も思います.では執行部は何をすればいいのか.学会の居心地をよくするために知恵を絞ることではないかと思います.JEMSに興味を持ってくださる研究者,入会してみようと思う人が集まってくださることを期待しています.

三島雅之 (2020-2021年度会長)

 私たちの生活環境には人が作った様々な化学物質が入り込んでおり、近年その数は増加する一方です。化学物質のなかには遺伝子突然変異を誘発してがんの原因になったり、次世代に影響するものがあり、それらを変異原、あるいは総称的に遺伝毒性物質といいます。日本環境変異原学会は、人間・生物・地球環境における変異原、とくに公衆の健康に重大な影響を及ぼす変異原と、これに関連する基礎研究の推進ならびに関連情報技術の伝達を目的として活動する学会です。毎年1回秋に開催される大会は令和3年に第50回を迎えます。学会誌であるGenes & Environment誌(G&E)は今年インパクトファクターを取得しました。これら2つ、大会の開催とG&Eの発行が本学会の最も重要な学術活動です。本学会は産・官・学メンバーが率直に意見交換できる風土を有し、遺伝毒性物質の検出、同定、代謝、機序の研究推進や標準試験法の確立、食品添加物、農薬、環境汚染物質、医薬品、化粧品、労働安全にかかわる基準の決定と規制の実践・教育に大きな役割を果たしています。
 現在の日本では環境汚染や食品添加物、農薬などの発がん性を心配せずに生活できるようになりましたが、新たな問題も見えてきました。身の回りの様々な製品が国際的なサプライチェーンによって調達されるため、海外原料を使用した製品に遺伝毒性物質が混入していることが発見され、製品回収に至る事件が起きています。また、国民のおよそ半数が生涯のどこかでがんと診断され、がん治療の飛躍的な向上で患者の生存期間が大きく伸びている状況から、遺伝毒性を有する抗がん剤による2次発がんの問題が注目され始めています。さらに、食品の加熱調理や腸内細菌の代謝によっても遺伝毒性物質が産生されます。国内で申請される新規化学物質にどれほど厳格な法規制を導入しても、私たちの生活から遺伝毒性物質を完全に排除することは望めないのです。
 日本環境変異原学会は、第50回大会の節目に「日本環境変異原ゲノム学会」と名称を変えて新たな一歩を踏み出そうとしています。ハザードの検出に重点を置いた伝統的な環境変異原研究を、新時代の課題解決につながる内容に変えていこうとする意志の表明です。今後、遺伝毒性学者は何を目指すべきなのでしょうか。私は、少なくとも、「遺伝毒性は定性評価」と言われた過去と決別して、生物活性と暴露量の関係に基づく定量的な評価に移行し、現実的なリスク・ベネフィットの議論をすることが必要と考えます。そのためには、発がん要因を明らかにして各要因の影響力を推測する、膨大な数の化学物質を評価できるQSARシステムを進歩させる、DNA傷害の定量的バイオマーカーを探索する、DNA修復についての理解を深める、エピジェネティックな影響を明らかにしていくことが不可欠ですし、今はまだ見えていない新しい発想の研究も必要でしょう。臨床応用を目指すiPS細胞のゲノム安定性の問題や、産業利用が期待されるゲノム編集生物の生物進化へのインパクトを研究し、技術の適正使用についても発言していくべきです。学会名に「ゲノム」を付け加えるだけのことですが、我々は遺伝物質の変化がゲノム全体に与える影響を理解し、それが個体や種にどんな変化をもたらすかを考える、ゲノム毒性学とでも言うべき分野に取り組もうとしています。ご興味のある方は、ぜひこの学会で一緒に活動してみませんか。

本間正充 (2018-2019年度会長)

 1960年の高度経済成長期の日本は、急速な工業化により環境は悪化し、人々は環境汚染物質に曝露され、深刻な公害問題を引き起こしました。また、増え続ける人口に対応するため、食料の増産が必須で有り、大量の農薬、食品添加物が使われていました。このような環境中、食品中の化学物質の中には、DNAに損傷を与え、がんや遺伝病を引き起こす可能性があるものが存在します。これらを変異原(物質)と言います。日本環境変異原学会は、人間・生物・地球環境における変異原、とくに公衆の健康に重大な影響を及ぼす変異原と、これに関連する基礎研究の推進ならびに関連情報技術の伝達を目的として、1972年に日本環境変異原研究会として発足し、その後1978年から学会組織となり、現在に至っています。今年(2018年)、京都で開催される年大会は47回目となり、化学物質の毒性を研究対象とする学会組織の中では最も古い歴史を持ちます。
 学会設立当初の研究は、環境中の変異原性汚染物質の同定、食品添加物・農薬等の変異原性の証明、加熱食品中の変異原性物質の同定、環境変異原・がん原物質の代謝活性化機構等の研究が主体でした。これら研究を通じて、多くの変異原性・遺伝毒性試験法が開発され、試験法の標準化、国際的ガイドライン化が進みました。また、研究の成果は、化審法、食品衛生法などの法律に反映され、今日の日本では環境や食品を介しての変異原性物質の摂取による健康被害はほぼゼロになるように厳しく規制されています。これはまさにレギュラトリーサイエンスの勝利の結果です。環境変異原研究におけるレギュラトリーサイエンスとは、生活環境中に存在する化学物質に関して、その成因や機構、量的と質的な実態、およびその有害性影響をより的確に知るための方法を編み出し、その成果を用いて安全性を予測・評価し、行政を通じて国民の健康に資することです。日本環境変異原学会は、官・産・学の研究者の連携により、レギュラトリーサイエンスを介して社会に貢献してきました。一方、基礎研究の分野も設立当時から大きく進展しました。変異原性の主体はDNAです。分子生物学、細胞生物学、細胞遺伝学の進歩によりDNAの複製や修復機構が解明され、また解析技術の進歩から個々の変異原性物質の毒性メカニズムを詳細に知ることができるようになりました。現在では、全ゲノムDNA配列を短時間で解析し突然変異を同定することも難しいことではない時代になっています。このように日本環境変異原学会はレギュラトリーサイエンスと基礎研究を通じて、生活環境中に存在する健康に重大な影響を及ぼす変異原物質をほぼ征服しました。学会創設から約50年経過した現在、一つの時代が終わったと言っていいかもしれません。
 次の時代、日本環境変異原学会は何をすべきか?これは日本環境変異学会に限らず全ての研究分野に共通する大きな課題です。これまでの手法や、考えにこだわらず、分野を超えて新しいことにチャレンジする必要があります。先ほど重要な変異原物質をほぼ征服したと言ったのは単なるうぬぼれかもしれません。新たな変異原物質は、もしかすると我々の身の回りにまだ多く存在し、ただ、それは従来の方法では見えないだけなのかもしれません。従来の方法にこだわり、新たな脅威を見逃してはなりません。このためにはより高度な戦略が必要です。日本政府は昨年末、分野を横断して科学技術の革新をめざす「統合イノベーション戦略」(仮称)策定に向けて動き出しました。健康・医療やIT(情報技術)などの重点分野を設定して研究開発を支援します。日本環境変異原学会はこの流れの中で新たな研究への挑戦と、新たな健康への脅威に立ち向かわなくてはなりません。

宇野芳文 (2016-2017年度会長)

 本会の目的は,「人間・生物・地球環境における変異原,とくに公衆の健康に重大な関係を有する変異原とこれに関連する基礎研究の推進,ならびに関連情報・技術の伝達」です.変異原とは,遺伝子や染色体に突然変異を起こす物理的,化学的,生物的要因の総称で,一般に変異原というと化学変異原をさす場合が多く,2011年の大震災による原発事故で漏洩した放射性物質もそのひとつです(但し,変異原の実態は放射性物質が発する放射線で,これは物理的要因に分類されます).その他にも環境中には,太陽光中の紫外線,タバコの煙,肉類の焼け焦げなど多くの変異原が存在し,健康に重大な影響を及ぼすとされます.変異原はDNAや染色体にダメージを与え,結果として生じる重大な健康影響の一つが発がんです.本会は変異原の研究者の多くが参集する学会であり,基礎から応用研究まで幅広い議論を行っています.
 本会の関心事のひとつとして,変異原のリスク(危険性)評価があります.先人たちが変異原を高感度で検出できる簡便な試験法(変異原性試験または遺伝毒性試験と言います)を開発し,それらは化学物質の法規制のためのガイドライン試験として国際的に標準化されています.標準化の過程において,本会の会員は多大な貢献をしてきました.新たに合成される化学物質の殆どは変異原性試験での評価が義務付けられ,変異原は国による法規制により厳格に管理されています.本会には化学物質を規制するための国の各種委員会に属する会員も多数おり,国民の健康のために尽力しています.このような研究はレギュラトリーサイエンス(規制科学)と呼ばれます.本会ではレギュラトリーサイエンスに寄与する新しい知見が次々と報告され,最新のデータや考え方に基づいてリスクを正しく評価するための議論が日々なされています.
 本会に興味をもたれる方のご参加を心よりお待ちしております.

青木康展 (2014-2015年度会長)

 日本環境変異原学会(JEMS; The Japanese Environmental Mutagen Society)会長への就任に当たり、一言ご挨拶申し上げます。
 歴代の会長御挨拶にありますように、多くのJEMS会員が世界の環境変異原研究をリードする成果を挙げてまいりました。その伝統を生かしつつ、環境変異原研究がさらに発展するよう努めてまいる所存でおります。
 人をはじめ生物は、環境から被る化学物質や物理的因子などの「環境情報」に巧みに応答しつつ、ゲノム上の遺伝子に記録された「遺伝情報」即ちDNAの塩基配列を後代に正確に伝えて地球上で繁栄してきたと考えられます。生物は、大気、水、食物などを通じて環境から様々の化学物質を取り込み、また放射線や太陽光の照射を受けています。化学物質や物理的因子の有害作用の多くは生体防御作用により軽減されていますが、その一部は塩基配列をはじめとしたDNAの構造に変化を引き起こし、遺伝子に変異を起こす性質(変異原性)を示します。変異原性を示す化学物質・物理的因子は変異原と総称されます。また最近は、DNAのメチル化などエピジェネティックな作用も遺伝子の機能に変化を及ぼすことが知られています。これら遺伝子の変異やエピジェネティックな作用が生殖細胞に発生することは、後代に突然変異が発生する原因になります。また、体細胞での遺伝子の変異の発生は、がん発症の原因となります。この遺伝子変異や遺伝子機能に及ぼす機構やその防御機構を明らかにすることは、生命科学としてばかりでなく、健康科学として重要な課題です。これら遺伝子の構造あるいは機能に対する悪影響(遺伝毒性)に関わる諸課題に取り組むことが、JEMSの役割と考えます。「環境情報」と「遺伝情報」のクロストークは、しばしばGene and Environment Interactionというキーワードで語られます。JEMSのモットー"Science for Genome Safety(ゲノムの安全のための科学)"や英文誌タイトル"Genes and Environment"は私たちの役割を表現したものです。
 長い生命の歴史の中では化学物質や物理的因子はすべて自然に存在したものでしたが、20世紀前半からの工業社会の進展に伴い、人は自らが創り出した化学物質(Man-made Chemical)等を利用して利便性を得るようになりました。その一方、人為的な変異原が環境に放出される社会が形成されるようになりました。いわゆる公害の収束により、環境から被る健康影響は優先順位が低下したように思われがちですが、最近、大気汚染がIARCのグループI(ヒトに対する発がん性が十分確かめられている)として分類されたことが示すように、まだ、未同定の変異原が存在し、未解明の課題が多々存在することが予想されます。環境変異原研究は21世紀の生物学といえるかもしれません。
健康科学の観点に立てば、人が摂取する、あるいは曝露を受ける化学物質や物理的因子の内どのようなものが変異原性を示すかを明らかにする必要があります。また、リスクを評価し摂取レベルが安全域にあるか否かを示していく必要もあります。これらは、自然科学と社会の仕組みの接点となるレギュラトリー・サイエンス(規制科学)の課題でもありますが、その取り組みもJEMSの大きな役割です。
 変異原の同定や変異原性のリスク評価の基盤となる変異原試験法の開発は、安全性を確保する上で重要なテーマです。試験法開発は一国に閉じられた課題ではなく、国際協力と国際調和の中で進める必要があります。JEMS会員の協力により開発された試験法が、OECDや医薬品の規制の国際調和を協議する機関であるICHなどのテストガイドラインに採用されてきました。同時に、JEMS会員がテストガイドライン策定の議論にも参画し、策定に大きく関与しています。
 ここ数年の次世代DNAシークエンサーの汎用化により、個体ごとの全ゲノムDNA配列決定が夢ではない時代がやってきました。このような分析技術に加えて遺伝子工学の発展によって環境変異原研究の新たな地平が開かれる予感がします。また、社会と人間活動の変化に伴い、Science for Genome Safety に関わる多様な未知の課題が引き起こされると考えられます。その一方、経済的な発展途上にある諸国では、我が国が経験した環境汚染の問題が起こっています。これらの問題克服にもJEMS会員の研究は貢献しています。JEMSは基礎生物学から試験法の開発など課題解決にあたる研究まで変異原に関する幅広い活動を進めています。この活動は,大学、公共研究機関,企業の3セクターの緊密な連携があって始めて成しえるものです。JEMSはこの3つのセクターに所属する会員によりバランスよく構成され、多くの共同研究が進められています。今後とも、関係分野の研究者の皆様の参加を仰ぎつつ、環境変異原の研究を促進・支援する学術団体であるJEMSの活動をより一層充実させる所存でおります。

葛西 宏 (2012-2013年度会長)

 40年もの歴史のある本学会の会長に指名され、その重責に身の引き締まる思いです。そして東日本大震災に伴う、福島原発事故以来問題山積であり、被災された方々のためにもわれわれの研究分野からの責務を果たすべく一層の努力をして参りたいと思います。

 福島の原発事故の件では、今も続いている放射能漏れに対しもっと厳しく対処すべきだと思います。一方で、既にまき散らされた放射性物質のリスクに関しては懸念が続いています。研究者として次の点を再確認し正しい情報を発信すべきだと思います。1)どの点が研究結果として明らかで、どの点が不明なのか、2)明白になっている研究結果については一般の方々にほんとうに正しく伝わっているのか。この2点です。ヒトは多くの変異原の中で暮らしています。IARCがグループ1(ヒトに対する発がん性が十分確かめられている)に分類している太陽光線、タバコの煙(喫煙、間接喫煙)、放射線等のうち太陽光線、タバコの煙等に関しては個人個人の判断のもとにヒトはうまく付き合ってきました。しかし昨年の大震災後問題となっている放射線だけは特別危険なものとして扱われているように思います。様々な環境変異原によるリスク全体の中で放射線はほんの一部であることを冷静に考えるべきです。

 先日、私が持っていた30年前の学会要旨集を見て最近のものとの大きな違いに気が付きました。以前は大気、土壌、河川水、食品、インク、ヘアダイ等、様々なものから変異原性を調べ物質的に明らかにしようとしていました(15報位)。例えば去年の大会ではこのような研究は2,3報しかありませんでした。環境変異原のほとんどが解明され未知のものはなくなった、とは思えません。遺伝子変異、トキシコゲノミックス等、最先端の技術の導入は優先的に取り入れる必要はありますが、変異原の物質的研究は平行して続けられるべきでしょう。なぜなら癌予防は原因物質の同定なくしては難しいからです。これら以外にも、今後、黄砂、光化学スモッグ、海洋汚染等、アジアの各国と共同で取り組むべき研究テーマも多くなると思われます。また環境変異原研究はヒトを守るための研究ですから、ヒト試料(血液、唾液、尿、等)を用いた、変異原のヒトへの暴露量、吸収、排泄、DNA付加体の分析、遺伝子変異等、バイオモニタリング的研究をもっと行うべきだと思います。そして各分野(変異原物質、遺伝子変異、抗変異、リスク評価、トキシコゲノミックス等)における研究結果を論文として発表することが大切です。重要な研究成果が出たときには学会誌であるGenes & Environ.に積極的に投稿してゆきたいと思います。これらの研究がヒトの健康を守るために役立つことを願っております。

山添 康 (2010-2011年度会長)

 日本環境変異原学会の会員の皆様、『想定外の文字』を新聞等で目にすることの多く、また何かと落ち着かない日々が続いていますが、お元気で活躍のことと存じます。
 3月11日に起きた東日本大震災で、被災された方、あるいは家族が被害に遭われた方々に、日本環境変異原学会を代表して哀悼の意を表します。  私が務める東北大学も一部の建物と設備が損傷しました。自宅のライフライン回復の遅れ、交通網の復旧の遅滞を経験して、私も日常生活の有難さを実感しました。今回の大震災では、津波の大きさと放射性物質の域外拡散によって、事前に準備されていた方法と手段が適切に機能しない事態が生じてしまいました。物質的にはほぼ満たされた生活を送ることになれた現代人は、快適さが消失することに関心が強く、回復にむけて強く反応する傾向があります。震災後仙台を含む多くの町で自動車の燃料を求めて長い車列ができました。現在は供給が正常に戻っていますが、一度不足の事態を体験すると供給が正常化しても不安からいつも満タンにしておこうとする心理が働きます。このように人間は災害そのものに素早く対応できますが、付随して起きる不安にはうまく対処できず、過度の反応を示すことがあります。

 東電福島発電所から放射性物質が排水を経て域外に放出されて問題となっています。この問題は本学会の活動とも深く関わっており、このことに関心を持たれている会員も多いと思います。ご承知のように放射線の遅延性影響はおもに遺伝子損傷からくる癌原性および染色体異常として調べられています。しかしながら放射線の影響を評価するデータは十分でなく、しかも放射線の人体影響については、低線量域暴露による影響が明確でないため、評価にたどり着くためには閾値と補外の妥当性の議論を避けて通れないのが現状です。このためICRPなどが示している20 mSvなどの値は、ALARAの原則に基づいた安全側にたった管理基準であり、具体的な研究結果から導かれたリスク評価の結果として得られたものではありません。したがって社会状況や作業環境によって管理基準が一時的に変更されることがあり、一方で恣意的とされ不信感を生じることになります。

 科学者はこのような状況においてできるだけ正確な判断とその根拠を人々に伝え、冷静な対応ができるようにサポートすることが求められていると思います。我々の研究領域は、遺伝子の特性を科学して、ヒトの安全を担う役目をもっています。想定外の事態が起きているときにこそ、我々の知識と考え方を打開に活かすことが望まれます。すでに複数の本学会員が食品等の放射線安全基準の策定に関与いただいていますが、多くの会員が、一般の方々への放射線についての知識の橋渡しに務めていただければと考えております。

平成23年5月  会長 山添 康

八木 孝司 (2008-2009年度会長)

日本環境変異原学会は、人間・生物・地球環境における変異原、とくに公衆の健康に重大な関係を有する変異原とこれに関連する基礎研究の推進、ならびに関連情報・技術の伝達を目的として、1972年に創設された学会です。環境変異原とは環境中に存在する突然変異を起こす因子のことで、化学変異原と物理変異原があります。本学会の研究内容は食事・大気・水などに含まれる未知の変異原物質・人体影響物質の探索、大気・河川水・土壌など環境中に存在する変異原物質の測定、個々の変異原の作用メカニズム・発がんメカニズムなどの解明、ヒト個体間および動物種間における変異原感受性の違いの要因の解明、環境変異原物質の複合効果の解明、環境変異原物質の生態系への影響の解明、食品・医薬品や新しい化学製品の安全性の確認、安全性試験法の開発と改良、環境変異原のヒトへの発がんリスク評価などに及んでいます。化学物質の安全基準値の決定や遺伝毒性試験法の確立など行政とも深く関わっています。

一例ですが、本学会会員の研究から、これまでに次のような大きな成果が出ています。食品添加物AF-2の変異原性の証明(近藤宗平・賀田恒夫ら)、加熱食品中の変異原物質ヘテロサイクリックアミンの発見(杉村隆・長尾美奈子ら)、染色体異常を指標とした変異原物質検出法の開発(石館基、祖父尼俊雄ら)、変異原物質の代謝活性化機構の解明(加藤隆一、鎌滝哲也ら)、大気中の変異原物質の同定(常磐寛、大西克成ら)、環境変異原物質吸着剤ブルーレーヨンの開発(早津彦哉ら)、DNAの酸化損傷8-ヒドロキシグアニンの発見(西村暹、葛西宏ら)。

このような輝かしい歴史の上に、いま日本環境変異原学会はさらなる発展に取り組んでいます。その背景にはまず環境影響研究領域の拡大と、ヒトゲノム解明などに基づく分子レベルの研究法の進展があります。現在の日本の環境は低濃度で他種類の物質によって汚染しています。かつての水俣病、イタイイタイ病、近年では記憶に新しいアスベスト中皮腫など、公害型の人体影響は日本ではほとんどなくなり、日本の環境はきれいになったといわれています。しかし国立がんセンターの統計によれば、がんに罹る率(高齢化の影響を除いた年齢調整罹患率)の1975年以来の推移は胃がんと子宮がんを除いて、ほとんど横ばいか、肺がん、前立腺がん、乳がん、卵巣がんなど多くのがんで増え続けています。年齢を限定して全がんの罹患率を1980年と2000年とで比較すると、男性では60歳代以上で、女性では40歳代以上で増えています。がんの原因の大部分は環境要因であると考えられており、環境やライフスタイルの変化に伴う、体内へ取り込まれる物質(これには食品中の自然の成分も含まれます)の種類と量の変化が、がんの増加に関わっていると考えられます。これらのことから、環境変異原の研究は単一の化学物質の遺伝子突然変異に限らず、さらに他の要因をも考慮して発がんへ至る過程を考えるべきであることを示しています。

いま考えるべきその要因の1つに化学物質による遺伝子発現のかく乱があります。近年のエストロゲンやダイオキシン類を中心とした内分泌攪乱物質研究の勃興以前から、我々は化学物質の変異原性と催奇形性をオーバーラップした機構による性質として捉えてきました。ほ乳類細胞には約50種類の核内受容体が存在し、それらのリガンドとなる化学物質が環境中に存在します。それらはアゴニストあるいはアンタゴニストとして機能し、本来のリガンドと受容体によるべき転写を促進させたり抑制したりします。たとえばタモキシフェンがエストロゲン受容体のリガンドになり、かつDNAに付加体を形成するという2つの作用を考えると、突然変異を起こしたエストロゲン応答性細胞が増殖促進させられることによってがん化が導かれると説明づけられます。これは以前から知られている、がん化のイニシエーションとプロモーション仮説と同じことです。このような作用は、タモキシフェンのように1つの物質が持つこともあれば、環境中のいくつかの物質による複合効果によることもあります。このように環境化学物質によるがん化の解明に限っても、変異原性だけにとどまっていては限界があり、まして化学物質による生体影響を総合的に解明するためには、遺伝子発現の網羅的解析のような斬新な方法の開拓や関連する他学会との連携も求められます。化学物質による遺伝子発現変化によって起こる形質変化は、そもそも環境変異と呼ばれる現象です。環境変異の原因としての環境変異原、特にエピジェネティックな遺伝子発現変化を起こす環境変異原(Epimutagen)も、本学会の研究対象の1つとみることができます。

本学会の発展のためのもう1つの取り組みはアジア諸国との連携です。現在、韓国・中国・インドなど、アジア諸国の経済発展はめざましく、それに伴ってアジア諸国の環境変異原研究は質・量共に増大しています。本学会はアジア各国の手本となるべく、さらなる研究レベルの向上に努め、アジア各国の研究者に研究の情報や技術を提供していかなければなりません。また経済発展の代償のようにアジア各国では環境汚染が進み、その影響が日本にまで及んでいます。そのためアジア各国の変異原学会と連携して、研究交流・協力を行う必要があります。昨年は小倉で第1回アジア環境変異原学会大会が開かれましたが、2年後にはタイのアユタヤにて第2回大会が開かれる予定です。本学会は第2回大会が成功するよう支援します。一昨年、学会機関誌はGenes & Environmentとして英文化されましたが、そのレベルアップを図り、これがアジア変異原学会の機関誌となるよう努力するつもりです。

以上述べた事柄に本学会の会員は一丸となって取り組んでおり、今、その研究は質・量共に向上し、ますます活気溢れる学会になっています。この分野に興味をお持ちの大学、研究機関、企業などの研究者で、まだ会員になっておられないかたはぜひご入会ください。心から歓迎申し上げます。


若林 敬二 (2006-2007年度会長)

平成18年の我が国のがんの総死亡者数は329,314人にもなります。がんは遺伝子の病気で、その発生には多くのgenetic 及びepigeneticな変化が関与しています。すなわち、正常細胞ががん細胞に変化するためには多くの段階があり、多くの遺伝子変化の蓄積が必要です。言い換えれば、私たちの身の回りにある多くの発がん因子が各々に作用しあって、がん発生に関与する数多くの遺伝子を長い年月をかけて少しずつ傷害し続けた結果、がんが発生してくるものと考えられます。職業がんや、感染が原因となっているがんは、それらの因果関係が多くの場合明らかにされています。しかし、その他の大部分のがんの発生にどのような要因が関与しているかについては、ほとんどわかっていないのが現状です。例えば、膵臓がんで高頻度に認められるK-rasの変異を引き起こす要因は未だに明らかにされていません。

我が国には伝統的な化学発がんの歴史があります。1915年、山極勝三郎博士がウサギの耳にコールタールを塗り、世界で初めて動物にがんを作ることに成功しました。1932年には吉田富三博士等がオルト-アミノアゾトルオールを飼料に混ぜてラットに投与し、肝臓にがんを作りました。更に1957年に、中原和郎博士等は変異原性を有する4-ニトロキノリン1-オキシド(4NQO)をマウスの皮膚に塗布すると発がんすることを証明しました。その後、杉村隆博士等は1966~67年に変異原物質であるN-メチル-N'-ニトロ-N-ニトロソグアニジン(MNNG)をラットに皮下注射して肉腫を発生させるとともに、MNNGを含む飲料水をラットに投与することで、胃がんを誘発させることに成功しました。これらの成果は変異原物質と発がん物質との関連性を示し、発がんが遺伝子の変化によることを示唆した先駆的な業績でした。

このような歴史を背景にして、日本環境変異原学会が1972年に創設されました。その翌年(1973年)には、食品防腐剤のニトロフラン誘導体AF-2の変異原性が近藤宗平博士、賀田恒夫博士により報告され、その後、発がん性が証明されて使用禁止になりました。更に、多くの優れた業績が本学会から生まれています。それらのいくつかを以下に示します。

  1. AF-2の突然変異原性の証明
  2. 加熱食品中の変異・がん原性ヘテロサイクリックアミンの発見
  3. 染色体異常を指標としたがん原物質の検出法の開発
  4. 環境変異原・がん原物質の代謝活性化機構
  5. 大気中の変異原性汚染物質の同定
  6. ブルーコットン、ブルーレーヨンの開発
  7. DNAの酸化的傷害により生ずる8-OH-dGの同定

日本環境変異原学会の会則第2章には「本会は人間・生物・地球環境における変異原、とくに公衆の健康に重大な関係を有する変異原とこれに関連する基礎研究の推進、ならびに関連情報・技術の伝達を目的とする。」とあります。前述しましたように、ヒトがんの誘発にどのような環境要因が係わっているかについては未解明の部分が多くあります。しかし、がんのリスク要因を低減化するためには、これらの要因とその発がん機構を一つ一つ解明するとともに、多種多様の発がん要因を総合的見地から把握することが必要です。食事、大気や水などに含まれる未知の変異原・がん原物質の検索及びそれらの発がん機構、生体内で生成される発がん要因の同定、アスベストの曝露及びその発がん機構、新しい化学製品の安全性、発がん感受性要因、環境変異原・がん原物質のヒト発がんに対するリスクなど、本学会が中心となって解決しなければならない研究課題は多くあります。韓国、中国などのアジア諸国でも同様な問題を抱えているものと思われます。本学会の理事及び評議員とが問題意識を共有し、会員と協力して活気のある前向きな学会にしていきたいと考えています。